おっすオラ2児のオカン!
毎日右肩が壊死して何回目の葬儀をしたかわからないところまで来ているようふふ!
それはさておき、
2ヶ月前、スーパー妊婦だった私。
出産の1週間前に夜な夜な娘が寝た後書き上げたエッセイが入賞しました。
と言っても、最優秀賞には遠い「佳作」という賞ですが賞には変わりないので来月お子を連れて授賞式に乗り込んできますうふふ
「働く」ということを通してどう生きるかを考えるという厚労省企画のエッセイコンテスト。
今年は、母のことを書きました。
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2018.6.26記
『魔法使い見習いの私』
突然だが、私の夢は、魔法使いになることである。
その目標ができたのは、魔法使いである母の影響である。
と言っても実際彼女は、今年67歳になる助産師の母。
既に引退してもいい年頃なのだが、
誰も彼女を止めることはできない。
父が突如この世を去ったのは、
16年前、ちょうど両親が50歳の時だった。
その頃父は、ストレスによりうつ病、アルコール依存症を患い、最後はくも膜下出血で亡くなった。
私は、母と一緒に医師からの宣告を聞き、
可能性がかなり低い状況で頭蓋骨を開けて手術して植物状態の延命措置をするか、
このまま自然に任せるかの二択だった。
実は、その半年前にはすでに離婚は成立していたものの、
私たちは立派な家族だった。
延命をしても長くない命ということはわかっていたので、
母は自然に任せる決断をした。
「もう、これ以上苦しまないでほしい。」とも言っていたっけ。
当時16歳だった私は、
その決断を「愛」と呼ぶことを知った。
母は、私が物心ついた頃からバリバリのやり手で
いつも仕事、勉強、遊びを全力で成し遂げるスーパーウーマンだった。
すべてのことを一気にこなし、
いつ座っているかも、
いつ寝ているかも、
いつの間に料理を作ったのかもわからなかったので、
小さい頃私は密かに母のことを本物の魔法使いだと思っていた。
一人の人間が、あんなに何役もこなせるわけがない。
そう信じきっていた。
そんな母は、父が亡くなってどん底だった私たちの人生を太陽のごとくいつも明るく照らしてくれた。
「今が一番底辺、あとは上を見るだけだから楽勝じゃん!」
そう言って、師長業務をこなし、通信大学で法学部を卒業、産業カウンセラーの資格を取得し、現在は開業して新生児訪問、看護学校講師、産婦人科のスタッフとして働き、家に帰れば孫4人、私たち娘とたっぷり時間をとって
今日あったことゆっくり話してくれる。
現在、二人目の子を妊娠中で里帰り中の私は、
毎日彼女の「魔法使いっぷり」に圧倒されている。
母を見ていると、
「辛いこともあるけど、仕事が楽しくて仕方がない。誰かの役に立つって結局は自分の幸せにつながる」
ってことを背中で教えられる。
本当に辛かったと思う。
50歳という若さで、夫が突然なくなってしまったこと。
女手一つで3人の娘を養っていくこと。
「助けて」って誰にも言えなかったこと。
それでもなぜか、母はいつも輝いていた。
仕事を通して、様々な「お母さん」と出会い、「生命の誕生」に手を貸して、感謝され、そこで出会ったたくさんの女性たちが彼女を強くした。
2年前、私が第一子を出産した時も助産師である母はずっと私を支えてくれた。
「今、とても痛いのは赤ちゃんが一生懸命この世に生まれようとしてるから。
深呼吸をして赤ちゃんに空気を送ってあげて。」
そんな風に言われて、24時間にも及ぶ出産にも耐えることができた。
出産した後、母がこうメッセージをくれた。
「本当によく頑張ったね。あなたは美しく産めてたよ。
頑張る人は、美しい。」
号泣したのはいうまでもない。
「頑張る人は、美しい」
まさに私が母に送りたい言葉だった。
私は、いつか母のような魔法使いになりたい。
仕事もバリバリこなし、決して学ぶことをやめず、娘たちにありったけの愛情を全力で注ぐ。
困難な状況になったとしても
「今が一番底辺、あとは上を見るだけだから楽勝じゃん!」と明るく声をかけるんだ。
現在、臨月の私は、娘が寝たあと夜な夜なその目標に向かい、こっそり資格の勉強をしている。
リビングへ行くと、母も同じように次の野望に向かって机に向かってる。
頑張る人は美しい。
魔法使いと魔法使い見習いの私は、
目があうとニコッと笑い、向かい合って勉強を再開する。
第二子が生まれたら、
次はどんな仕事をして魔法使いに近付こう?
そう、母の前で思いをはせる、
その時間が今、実はたまらなく幸せなんだ。
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いつもお世話になりすぎている母へこのエッセイを送ります。