「エッセイコンテストで賞を受賞されましたので授賞式にご参加ください。」
この電話を受け取ったのは、先月大阪に一時帰省する新幹線の中だった。
昨年秋、応募した「全国いじめ・自殺防止国民運動」のエッセイコンテストを発見し、朝活の合間に一気に書き上げたエッセイが何かの賞をとったらしい。
審査委員長は、まさかの
あの松本零士さん。
銀河鉄道999の作者の方だ。
大物。
その週末、東京で授賞式が
開催されるものの、私は大阪にいる予定だったので参加できず。
ちょうど、その日は体調を崩していたのでどのみち事前にキャンセルしておいて正解だった。
授賞式当日に、なんの賞を誰が取ったかというのが発表されたらしく、私は未だにどの賞を取ったのかは分からず表彰状の郵送を心待ちにしているところである。
「全国いじめ・自殺防止国民運動」
という割と重めのコンテストだが、いじめや自殺についてどのように考え行動していくかという、とても前向きなコンテストだったので過去を振り返ると自然にペンが進んだ。
かくいう私も、今でこそ根性パリピだが、
9歳の頃に1年間ほどいじめを受けていた。
それを通してすごく長い年月をかけて学んだことがたくさんある。
今回は、その作文をここに記そうと思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「母の言葉が私を強くした」
「明日、泣かないためにも今、
ここで思いっきり泣きなさい。」
1年間いじめを受けた末、母に打ち明けた夜、
母はそう声をかけてくれた。
小学校3年生の時、私は女の子4人グループで行動していた。彼女たちはとても明るく可愛くて優しい人たちで、
よく夢を語り合ったり、一緒に映画を見たり、
他愛もないことで馬鹿笑いする親友たちだった。
親同士も仲が良く、この仲がずっと続くと思っていた。
まさか、自分がいじめの標的になるなんて
思ってもみなかった。
突然、本当に突然完全に無視され始めた。
「おはよう!」
そう声をかけても知らんぷり。
まるで、私なんか存在していないかのように。
シュンとして肩を落とすと、背中に視線を感じた。
振り返ると昨日まで笑いあった大きな口を、手で覆い、 ひそひそ話をしながら彼女たちは私を睨みつけていた。
「ああ、これがいじめというやつか」
私はドラマで見たことのある風景を自分と重ね合わせ、
ようやく事態を飲み込んだ。
一人で給食を食べ、
一人で教室移動、
一人で休憩時間に絵を描き、
「いじめを受けている人」
として群衆の視線を集める日々が続いた。
すると、ある時数名の女の子が帰り際に
こっそり話しかけてくれた。
「彼女たち、いつもあなたの文句ばかり言ってるけど、
私たちは味方だからね!」
そんな言葉に一瞬、嬉しさを感じた。
しかし、今考えればその優しさが「いじめの一部である」ということに気がついた。
私の文句が言われている間、
彼女らはなんと言ってくれたんだろう。
反論せず、ただ自分が次のターゲットになることを避けるため同調していたらしい。
第三者から聞かされる自分の文句の鋭利な残酷さに
彼女たちは気づいていなかったのだろうか。
男の子たちはこの出来事を「女子のただの喧嘩」
「仲間割れ」と認識しているようだった。
いじめを受けた本人にとっては一方的すぎて、
いっそ思いっきり喧嘩できたら楽なのに。
そう感じていた。
学校に行くのが嫌になったが、
両親にバレないためにも、
自分の将来のためにも朝は作り笑顔で登校していった。
そんな中、ある出来事が私を救ってくれた。文句の使いの者がくれた「元気出してねお手紙」をあろうことか私は机の上に置きっぱなしにしてしまっていた。
その頃意気消沈していた私を心配した姉がこっそり
母に渡したらしい。
手紙の内容を読めば、私が長きにわたっていじめられていることは明らかだった。
その夜、私は母の寝室に呼ばれ、こう言われた。
「手紙、読んじゃった。ごめんね。」
母に「いじめられている娘」と知られるのが怖かった。
悲しませたくなかった。
私はワンワン泣いた。
張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「あなたは、どうしたい?」母がきいてきた。
私は、決して親に頼りたくなかった。
自分の問題は自分で解決したかった。
そう伝えると、母はこんなことを言った。
「よくわかった。辛かったね。
そのグループにはリーダー的な子がいるわね?
その子が一人の時を狙って話に行きなさい。
その子は、多分一人では何もできないから。
そしてこう言うの。
“私の文句、言ってるよね?悪いところがあったら教えて”
って。」
あまりの単刀直入で特攻隊のような発言に私は目を丸くした。
そして、母は続けた。
「彼女は絶対に、“言ってないよ!”と言うはずだから、そしたら無理矢理でも手を握って握手して
“じゃあ、これからも仲良くしてね!”
そう言って、颯爽とさって行きないさい。
いじめはなくなるはずよ。」
まさか、こんなこと言われると思っていなかった。
母との約束は、この話をグループのリーダーとする間、
決して涙を見せないこと。
「明日、泣かないためにも
ここで今思いっきり泣きなさい。」
そう言って私を大きく包んでくれた。
翌日、母の教えの通りグループのリーダーが一人のところを狙ってあのセリフをぶつけた。
「私の文句、言ってるよね?悪いところがあったら直すから教えて欲しい」
すると彼女は、みるみる顔を赤くして「言ってないよ!」と突っぱねた。
私はすかさず彼女の手を取り、
「じゃあ、これからも仲良くしてね!」
そう言って背中を見せて駆けていった。
母の言った通り、いじめはぱったりなくなった。
文句の使いの者とも遊ばなくなった。
母に報告すると、
「すごく勇気がいったでしょ。よく頑張ったね。」
そういって優しく頭を撫でてくれた。
あとで聞いた話だが、母もまた小学校の時に長きにわたっていじめにあっていたんだとか。
当時の彼女は引っ込み思案で泣き寝入りするしかなかった自分をすごく悔やんで大人になったらしい。
私は、それを聞いて母の分までいじめっ子をやっつけられたような気がした。
不思議と、そのいじめていた女の子たちとは今でも仲良くしている。
今考えたら、当時の私にも至らない点がたくさんたったんだろう。女を32年やっていてわかったことだが、
女の怒りはポイント制で小さなことが積み重なってすごく小さなきっかけで火山のように爆発する。
彼女たちの怒りポイントを私は知らずしらずのうちに稼いでしまっていたのかもしれない。
いずれにせよ、この経験のおかげで私は随分強くなった。
中学生になる頃には、ある障害を持つ女の子にヤンキーグループがボールを投げつけられていじめられている場面に出くわした。
そこには、大きく手を広げ、ボールを投げ返して守っている自分がいた。
のちに、彼女はそのことを卒業文集に書くほど感謝してくれていた。
その繋がりは、時を経て私たちの元に返ってきた。
助産師の母の病院で新しい命が誕生した。
その子の母親は、私が当時守ったクラスメイトの義姉だった。
「助産師さん、ゆいちゃんのお母さんですよね?
中学の時、私の義妹をゆいちゃんが体を張って助けてくれたって話していました。代わってお礼を言います。
ありがとう。」
お母さんは、
「今日、とてもいいことがあったの!」
仕事から帰ると涙目でそのことを教えてくれた。
いじめを受けていることで当時母を悲しませた私は、
それを聞いてようやく胸を張れることができた。
よく、いじめた方は忘れていて、
いじめられた方ははっきり覚えているとはいったもので。
守った方や守られた方にも強く思い出として刻まれている。
いじめは世代を経て、人々の傷として残っている。
幸い、私はその傷を腐らせず踏み台にして強くなることができた。
どんな状況に陥っても、その時何をなすべきか、
誰と手を取るべきか、
どれを自分なりに正解にしていくかは自分次第。
あの時、母がかけてくれた言葉は、
将来、娘がもし、いじめにあった時にも伝えていこう。
お母さん、ありがとう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このようなことを書いたあと、
最近読んでいる本にもこう書いてあった。
ほんまにそう。
自分もムスッとしてたら同類になっちゃう。
かっこよく、颯爽と、を教えてくれて9歳で実践できたことは今でも誇りだ。
誰かの心にちょっとでもとまればいいなと思ってシェアしました^^
ええオカンなろ!
“【エッセイコンテスト入賞〜松本零士さんに選んでいただきました〜】” への1件のフィードバック